赤穂神社(本社・南都鏡神社のウェブサイトでは、読みを「あかぼ」としている)
小さなお社だが、現地の由来説明板によると「春日社神官邸町の西端の地に鎮座」する「延喜式所載の古社」。
高畑は、春日大社の社家町として知られる町で、春日大社境内の南に接する。柳生街道口でもある。
拝殿内に大正15年の「春日神官住居大略地圖」が掲げられている。
わざと小さい画像を貼るが、中心の東西通りに東から「隔夜寺町、◎丹坂町、◎福井町、◎上高畑町、◎高畑町、神戸穂町、◎破石町、◎下高畑町」北側の東西通りに「◎新開町、旧名 宮ノ前町、北大道町(◎北之大道町)、◎丸山町」南側の東西通りに「鳴かず川、明井町(◎閼伽井町)」新薬師寺前の南北通りに「◎高井町」などの町名が見える。
(◎印は享保3年「奈良町役名付帳」にある奈良町205町)
いわゆる奈良町中心部は町名が細かいのに、なぜ高畑町などの周辺町はクソでかいのかという疑問のヒントが、ここに隠されている。結構調べたらキリが無くなり、以下の長文となる。
「角川日本地名大辞典」を漁ってみると、江戸前期、おおよそ寛永年間までに周辺村に町場が発生し、村から町が分離して、奈良町各町が増えていったのだが、明治17年から明治21年、すなわち「市制・町村制」の直前に、その増加した奈良町各町が一旦周辺村に編入されてしまったのである。高畑で言えば、明治17年に上記の丹坂町に始まる30町4字が高畑村に「戻った」。
(過去には高畑は「高畠」の表記が多いが、この文章内では高畑に統一)
町の村への編入はこの他、奈良阪、般若寺、芝辻、油阪、三条、杉ヶ町(するが-)、木辻、肘塚(かいのつか)、紀寺あたりで行われた。但し、京終町(現・北京終町)など、戻されなかった町も一部ある。
一旦村に戻った直後の明治22年4月1日、これらの村は全て奈良町、明治31年以降の奈良市に合併された。
この時点で旧村は「大字○○」となる為、もと奈良町の扱いを受けた周辺各町も「小字」格、今「通称地名」と言われる町名になった。たった5年弱が明暗を分けた。
ちなみに、今の大森町は明治37年に城戸町(じょうど-)から変更された。それと、通称地名は昭和初期にも「三条川崎町」などが増えている。
昭和56年発行の昭文社都市地図「奈良市」が手元にあるが、通称地名は元からの奈良町町名と同格の書体で書かれている。高畑の破石町、紀寺の幸町と田中町、木辻の綿町と八軒町と瓦町、三条川崎町もある。いずれも、現在も循環バスのバス停名として生きている町名だ。
郵便番号7桁化の影響もあるのか、小字格の地名は地図から省かれやすい現在(但し例外有り。一つ取り上げると、御所市の「国鉄御所駅前通り」)、奈良町の一部として発展してきた筈のこれらの地名は今後どう生き残っていくのだろう。
個人的には、興福寺僧侶居留地として発展していた高畑の菩提町(猿沢池東側)、御所馬場町(不審ヶ辻子町と鵲町の間)あたりは、特に高畑色が薄く感じる。