空堀の凹(3)榎木大明神+朝日神明社跡
- 2018.08.28 Tuesday
- 00:55
前回の続き
記事題は続き物として空堀の凹にしているが、今回は松屋町まわりの写真。
写真14
御祓筋、長堀通北にある榎木大明神(えのき-)。名は榎木だが、実際は槐(えんじゅ)の木。
前回出てきた瓦屋藤右衛門請地の瓦土取場北端になる。こんなに高い木でも、ビルに埋もれている。
写真15
前の写真とは逆に、安堂寺町側から南を見る。正面の低木の裏側に、直木賞でお馴染みの直木三十五文学碑がある。安堂寺町は、直木の生誕地である。
振り返って200m、御祓筋(熊野街道)を北へ進むと、南大江公園。
写真16
南大江公園の南西寄りには狸坂大明神。
写真17
狸坂大明神の脇には朝日神明社跡碑(摂津名所図会では「朝日神明宮」)。
ここに碑が立っているのでここに朝日神明社があったかと思いきや、道(骨屋町筋)を挟んで奥のビル付近にあった事が、江戸期の地図から読み取れる。
写真の説明板にある摂津名所図会にも、正門側に「松や町(=松屋町)」とある。同書本文には「松屋町筋安堂寺町の北にあり」「初め此社は東向なり。後世西向になりて松屋町を表門とす」とある。
東向は熊野街道側になるから、時代によって栄えていた側を表門としていたと考えられる。
ここは、説明板にある通り、12〜13世紀頃、熊野街道沿いに整備された九十九王子の一つ「坂口王子伝承地」でもある。
写真18
松屋町筋から南大江公園に向かう坂道。この坂は戦後に開通。
両脇の歩道の形状が、一つ前の写真の、摂津名所図会の朝日神明社境内と似たような段差になっている。
この坂道の南数十メートルの所にかつて「狸坂」があり、この戦後開通の坂と入れ替わるように狸坂が廃道となり、狸坂にあった祠が移転した先が、2枚前の「狸坂大明神」の地になる。なので、この写真の坂は便宜上「新狸坂」と呼ぶ事にする。
写真19
松屋町筋と長堀通が交差する、松屋町交差点。真下は地下鉄松屋町駅。
正面左の広い道が長堀通。明治の市電開通時に整備された道で、江戸期には未開通。
上に架かる陸橋が「高津原橋(たかつはら-)」。長堀通に分断された骨屋町筋を繋げる。
交差点右側が地下鉄3番出口。
出口のガラス越しに見える奥の階段を上がると骨屋町筋に突き当たる。
突き当たりに町家再生商業施設「練(れん)」が建つ。
長堀通が無い時代の高低差が想像できる。
続く
記事題は続き物として空堀の凹にしているが、今回は松屋町まわりの写真。
写真14
御祓筋、長堀通北にある榎木大明神(えのき-)。名は榎木だが、実際は槐(えんじゅ)の木。
前回出てきた瓦屋藤右衛門請地の瓦土取場北端になる。こんなに高い木でも、ビルに埋もれている。
写真15
前の写真とは逆に、安堂寺町側から南を見る。正面の低木の裏側に、直木賞でお馴染みの直木三十五文学碑がある。安堂寺町は、直木の生誕地である。
振り返って200m、御祓筋(熊野街道)を北へ進むと、南大江公園。
写真16
南大江公園の南西寄りには狸坂大明神。
写真17
狸坂大明神の脇には朝日神明社跡碑(摂津名所図会では「朝日神明宮」)。
ここに碑が立っているのでここに朝日神明社があったかと思いきや、道(骨屋町筋)を挟んで奥のビル付近にあった事が、江戸期の地図から読み取れる。
写真の説明板にある摂津名所図会にも、正門側に「松や町(=松屋町)」とある。同書本文には「松屋町筋安堂寺町の北にあり」「初め此社は東向なり。後世西向になりて松屋町を表門とす」とある。
東向は熊野街道側になるから、時代によって栄えていた側を表門としていたと考えられる。
ここは、説明板にある通り、12〜13世紀頃、熊野街道沿いに整備された九十九王子の一つ「坂口王子伝承地」でもある。
写真18
松屋町筋から南大江公園に向かう坂道。この坂は戦後に開通。
両脇の歩道の形状が、一つ前の写真の、摂津名所図会の朝日神明社境内と似たような段差になっている。
この坂道の南数十メートルの所にかつて「狸坂」があり、この戦後開通の坂と入れ替わるように狸坂が廃道となり、狸坂にあった祠が移転した先が、2枚前の「狸坂大明神」の地になる。なので、この写真の坂は便宜上「新狸坂」と呼ぶ事にする。
写真19
松屋町筋と長堀通が交差する、松屋町交差点。真下は地下鉄松屋町駅。
正面左の広い道が長堀通。明治の市電開通時に整備された道で、江戸期には未開通。
上に架かる陸橋が「高津原橋(たかつはら-)」。長堀通に分断された骨屋町筋を繋げる。
交差点右側が地下鉄3番出口。
出口のガラス越しに見える奥の階段を上がると骨屋町筋に突き当たる。
突き当たりに町家再生商業施設「練(れん)」が建つ。
長堀通が無い時代の高低差が想像できる。
続く
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