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前回の続き

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真20
空堀商店街に戻ってきた。アーケード西口。

先は東へ向かって上り坂で、田島町筋までの平均勾配は4%を少し上回る。
(260m進んで10.5m上がる。100÷260×10.5。標高は「マップナビおおさか」掲載の数値より)

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真21
アーケード入ってすぐを南に折れると、白玉大明神が鎮座する。軒先に挟まっている姿が何とも言えない。

この先、右(南)が若干高くなっている。この奥は石垣になっていて、低い方が旧 南空堀町(現 谷町6丁目)、高い方が現 瓦屋町1丁目の町境となる。この辺りでは珍しく、道路が町境になってない。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真22
石垣は路地奥で見られる。石段を上がった先が、町家再生商業施設「惣(そう)」の裏手。突き当たりには名前の読み取れない祠と大木がある。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真23
石垣と町境は惣の表側の御祓筋で一旦分断された後も続き、ビストロ ギャロ前のここまで続く。
手前左右の道は「金毘羅坂」がある道になる。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真24
商店街端から金毘羅坂。一旦下るが、ギャロ前からはまた上る。凹んでいる。
左の植木鉢の横に「百度石」が残るが、金毘羅さんは現存しない。

「狂歌絵本/浪花の梅」という江戸期の本(ネット上で参照可)の七題目「なげ橋」の絵を元に「空堀の金毘羅」の位置を推定すると、この写真の右(西)側に金毘羅の祠、道の途中の窪地に南惣構堀の埋め残り谷を流れる小川があり、そこに「弘法のなげ橋」と呼ばれる石橋が架かっていた事になる。

※グーグルマップの、谷町7丁目交差点西70mの所に印されている「金比羅坂」は、間違いだと思う。なお「毘」の字は「浪花の梅」に合わせた。



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前回の続き
記事題は続き物として空堀の凹にしているが、今回は松屋町まわりの写真。

大阪市 松屋町
写真14
御祓筋、長堀通北にある榎木大明神(えのき-)。名は榎木だが、実際は槐(えんじゅ)の木。
前回出てきた瓦屋藤右衛門請地の瓦土取場北端になる。こんなに高い木でも、ビルに埋もれている。

大阪市 松屋町
写真15
前の写真とは逆に、安堂寺町側から南を見る。正面の低木の裏側に、直木賞でお馴染みの直木三十五文学碑がある。安堂寺町は、直木の生誕地である。

振り返って200m、御祓筋(熊野街道)を北へ進むと、南大江公園。

大阪市 松屋町
写真16
南大江公園の南西寄りには狸坂大明神。

大阪市 松屋町
写真17
狸坂大明神の脇には朝日神明社跡碑(摂津名所図会では「朝日神明宮」)。
ここに碑が立っているのでここに朝日神明社があったかと思いきや、道(骨屋町筋)を挟んで奥のビル付近にあった事が、江戸期の地図から読み取れる。
写真の説明板にある摂津名所図会にも、正門側に「松や町(=松屋町)」とある。同書本文には「松屋町筋安堂寺町の北にあり」「初め此社は東向なり。後世西向になりて松屋町を表門とす」とある。

東向は熊野街道側になるから、時代によって栄えていた側を表門としていたと考えられる。
ここは、説明板にある通り、12〜13世紀頃、熊野街道沿いに整備された九十九王子の一つ「坂口王子伝承地」でもある。

大阪市 松屋町
写真18
松屋町筋から南大江公園に向かう坂道。この坂は戦後に開通。
両脇の歩道の形状が、一つ前の写真の、摂津名所図会の朝日神明社境内と似たような段差になっている。

この坂道の南数十メートルの所にかつて「狸坂」があり、この戦後開通の坂と入れ替わるように狸坂が廃道となり、狸坂にあった祠が移転した先が、2枚前の「狸坂大明神」の地になる。なので、この写真の坂は便宜上「新狸坂」と呼ぶ事にする。

大阪市 松屋町
写真19
松屋町筋と長堀通が交差する、松屋町交差点。真下は地下鉄松屋町駅。
正面左の広い道が長堀通。明治の市電開通時に整備された道で、江戸期には未開通。
上に架かる陸橋が「高津原橋(たかつはら-)」。長堀通に分断された骨屋町筋を繋げる。
交差点右側が地下鉄3番出口。
出口のガラス越しに見える奥の階段を上がると骨屋町筋に突き当たる。
突き当たりに町家再生商業施設「練(れん)」が建つ。

長堀通が無い時代の高低差が想像できる。

続く



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前回の続き

東は谷町筋、南北は空堀商店街から安堂寺町通の間。西の松屋町筋は平地になるので、コの字形の凹み。
南西側の一部が南惣構堀(空堀)推定地に被るが、全体的には瓦用の土を取って凹んだ土地。

【谷町六丁目駅西・空堀商店街より北、旧 東賑町】
江戸期 瓦屋藤右衛門請地
明治元-6 新瓦屋町
明治6-45 東新瓦屋町・西新瓦屋町
明治45-昭和57 東賑町・西賑町

現在は大半が谷町6丁目で、北端の一部が安堂寺町2丁目。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真7
空堀商店街から、谷町筋の1つ西の筋、善安筋(ぜんなん-)を北に見る。北が凹んでいる。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真8
坂を下った右手(東)にある、延命地蔵尊の入口。奥の左寄りに祠がある。
消化器箱に「東賑町会」と書かれてある。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真9
延命地蔵尊と井戸ポンプ。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真10
善安筋西の路地奥から見る石垣。
石垣は二層になっていて、空堀商店街側の1階は瓦土取場側の2階より高い。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真11
こちらは谷町筋と瓦土取場の段差。手前の西が凹んでいる。
この辺り、名称の付いた坂は少ないが、ここは「観音坂」と明確に記されている。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真12
観音坂の1筋北=長堀通の1筋南の石段。右の建物下に「上がれない階段」が埋もれている。
この階段の存在は、4枚前の写真の延命地蔵尊入口に貼ってあった絵に教えてもらった。

大阪市 谷町六丁目
写真13
瓦土取場の北の端、一段高い安堂寺町通から谷町筋を望む。安堂寺町のこの辺りは、熊野街道の一部でもある。

谷町筋(信号の所で交差する道)が凹んでいる。谷町筋はその名称に反して坂の上を通っている印象があるが、ここと内久宝寺町では名称通り、谷町が谷に見える。

江戸期は、内久宝寺町の北が「北谷町」南が「南谷町」だった。

続く


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東は玉造筋から西は松屋町筋にかけての、長堀通南側の現・空堀町から空堀商店街にかけては、かつて大坂城の南惣構堀、いわゆる空堀があった。

しかし大坂冬の陣後にはさっさと埋め立てられ、その後は瓦の土取場や農地に転用され、その土地利用は江戸末期まで続いた。

【谷町六丁目駅南東・空堀商店街より南、旧 南桃谷町】
※一部は旧々 瓦屋藤右衛門請地。南惣構堀推定地の一部とも被る
大阪市 谷町六丁目 空堀
写真1
谷町7交差点の東、楠木通から上町中学校への入口。北が低い。

熊野街道の新しい碑もあるが、空堀通から楠木通にかけてのこの道は周辺の旧来道から比べると若干貧弱で、なぜここを熊野街道としたのかがイマイチ分からない。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真2
上町中学校前から西に入ると、行き止まりと祠と石垣。石垣の向こうは谷町筋で、手前の東が低い。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真3
熊野街道に戻って北に進むと、空堀商店街に突き当たる所で再び高くなる。最初に下った分、ここでまた上る。

左に「桃谷湯」が見える。今は桃谷と言えば環状線の桃谷駅周辺を思い浮かべるが、地名としてはこちらが先で、空堀商店街より南は南桃谷町、北は北桃谷町だった。この町名は昭和57年(1982)に消された。

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・上町台地東側の真田山から真法院にかけては明治38-39年頃まで桃畑が広がり、通称「桃山」と呼ばれていた。

明治6-昭和57 北桃谷町・南桃谷町
・土地の高低と、桃木が多かった事が由来
→今の谷町・上本町西の一部。

明治7-平成3 桃谷(尋常)小学校
(途中、廃校・校名変更期有り)

明治28 桃山駅 開業
・駅西側一帯の通称地名が由来
明治38 桃山駅を桃谷駅に改称
・奈良線桃山駅との混同を避けるのが理由

昭和4-昭和48 東桃谷町
・桃谷駅東側
→今の桃谷の一部。「東」を取ってしまった
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東は上町中学校内なので確認は出来ないが、この辺りは東西南北どこから見ても凹んでいる。
豪雨時は大丈夫なのだろうか?

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真4
これも北に進む路地だが、こちらは階段状になっている。くたびれてはいるが、趣のある風景。
その先が桃谷小学校跡地の「空堀桃谷公園」。小学校は町名が消えた後も、平成3年(1991)まで存続した。

【谷町六丁目駅南東・空堀商店街より北、旧 北桃谷町】
大阪市 谷町六丁目 空堀
写真5
空堀桃谷公園の西側も若干凹っている。ここは熊野街道ではない。少し西の、空堀商店街アーケード切れ目から北へ進む道が街道筋になる。

大阪市 谷町六丁目 空堀
写真6
公園西側の道を北に進むと、約150m先で再び石段を上がる。ここも下った分、また上った。

北桃谷町側は瓦の土取場でもなく南惣構堀推定地とも被ってなく、地図上は農地だった事しか分からないが、なぜ凹んでいるのだろうか。

続く


鵲森宮から500mほどで、玉造稲荷神社の東口に着く。

大阪市 玉造稲荷神社
境内は高台にある。

大阪市 玉造稲荷神社
坂の途中に田畑がある。右奥に「玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり)」の碑が見える。高槻市の服部越瓜と共に、府から「なにわの伝統野菜」の指定を受けている。

大阪市 玉造稲荷神社
一時荒廃していた社殿を再興した豊臣秀頼(秀吉の三男、淀殿の第二子)の像(平成23年=2011竣工)と、秀頼によって奉納された鳥居。
鳥居は阪神大震災で損傷したため、この形で保存されている。
奥の白い建物は、難波・玉造資料館(拝観は事前申出制)。地名の由来となった、勾玉製作に従事した玉作部(たまつくりべ)に関する資料館。

大阪市 玉造稲荷神社
拝殿と利休井(平成18年=2006再掘)。
今は南向きの拝殿だが、戦災前は西向きだった。西に面する道の町名が、江戸期には「稲荷門前町」であった。

大阪市 玉造稲荷神社
拝殿向かって右手の桜の木と、伊勢参宮本街道に関する碑。奈良までは暗越奈良街道と重複。

大阪市 玉造 白光大神
神社南門の60m南にある、白光大神(しらみつおおかみ)。榎木大明神ともいう。奥に微かに見える朱色が、玉造稲荷神社の拝殿。
道路を割って立つ御神木だが、大正13年(1924)の地図では、西から伸びる内久宝寺町通の延長が南門前で南に折れ、この御神木の北30mの所で東に再度折れて東阪町に繋がるクランク状の道があるのみなので、道路の方が後に出来たと思われる。

大阪市 森ノ宮 鵲森宮
森ノ宮駅から玉造筋を望むと、ビルの谷間に、地名・駅名の由来である鵲森宮(かささぎもりのみや)が見える(過去には森町、森村とも)。

大阪市 森ノ宮 鵲森宮
鳥居前の碑には「舊名 鵲杜(←小/きゅうめい かささぎのもり。舊=旧)森之宮(←大)」とある。

大阪市 森ノ宮 鵲森宮
立派な手水舎と拝殿。
拝殿の右奥が社務所で、左側に大伴家持歌碑がある。歌碑の右に、

大阪市 森ノ宮 鵲森宮
古い写真が掲げられている。
境内前の天野川に鵲橋が架かっていた。当たり前だが、明治期のこの辺りに高層建築物無し。
天野川に鵲橋(かささぎ橋)と言えば枚方市を思い出すが、ここも昔はそうであった。

ここにある天野川とは、旧・猫間川のことである。今の森之宮駅前商店会の筋になる。大正13年(1924)の地図に、猫間川に架かる鵲橋がある。

なぜ天野川とあるのか。鵲森宮のサイトに「南方の標高百二十メートルほどの天野山に源を特つ川なのです」「天野川は、江戸時代に流路を変更された現在の大和川に合流する形となりました」とあり、それをヒントに探してみると、河内長野市にある標高272mの天野山付近から流れる天野川というのがあった。西除川(にしよけがわ)の源流部の別名で、大和川付け替え前は今の今川付近から平野川を経て大阪城北側に回り込んでいた。

しかし、これでは上町台地が源流だった猫間川と一致しない。
森ノ宮駅付近での旧・猫間川と平野川の間隔は約570mしか無く、当時の境内の広さや都市化していない風景を考慮すると、伝説化される過程のどこかで両川が入れ違ったのかも知れない。

玉造稲荷神社に続く

高槻 今城塚古墳

八重桜@今城塚古墳(高槻市)

大阪 造幣局 桜

八重桜@大阪造幣局 桜の通り抜け(大阪市)

他の観光客も口にしていたが、確かに今年はあまり綺麗に見えなかった。
曇天もあるし、散りかけの花もある。勿論、観光客そのものが多過ぎて、花見どころではないのもある。

大阪 福島区 藤

藤@下福島公園(大阪市)


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